SNSやAIの発達により情報があふれ、考える余白が失われつつある現代。南部会長は、そんな時代だからこそ「自らに問いかける力」が重要だと説きます。京都の企業経営者として50年以上のキャリアを持つ南部会長。その豊富な経験と深い洞察から、これからの時代を生きる若者たちへのメッセージを伺いました。
南部 邦男(なんぶ くにお)
株式会社ナベル 取締役会長
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若者の不安と仕事観――「お金」も含めた人生設計

前回の取材では、南部会長から「生きる意味とは」という問いをいただき、私自身、多くのことを考えさせられました。
転じて近年は若者たちの間で、「このままでいいのだろうか」という漠然とした不安や無力感が広がっているように感じます。こうした時代に若者たちはどのようにして自分の道を見出していけばよいのか。南部社長に若い世代の背中を押す言葉を伺えればと思います。

最近、大学生との対話セッションをする機会がありましてね。そこで感じたのは、今の若い人たちは「何をしたいか」「誰としたいか」については雄弁に語るのに、「ナンボもらいたいの?」ということに関しては全くと言っていいほど話が出てこなかったということ。私は仕事を選ぶ基準として3つの要素があると考えています。「何をするか」「誰とするか」、そして「いくらもらえるか」。

お金のことを考えるのは現実的すぎるとか、理想を追求することから目を逸らすことになるのではないか、という意識があるのかもしれません。

でも、「なんぼ(収入)」の話は大事です。これは社会人としてやっていく上で、普段の生活を支えるエンジンですから。たとえ立派な仕事をしていても、白菜ばかり食べて生活するのでは面白くないでしょう。
もちろん、お金にならなくても意味のある仕事はあると思う。だけど、お金にならない仕事ばっかり続けていたら、それ自体を続けることが難しくなる。だから、その辺りをしっかりと頭に入れないと長期的な人生設計や安心して哲学することさえできない。

確かにそうですね。

立派な経営者というのは、同時に哲学者でもありました。私は稲盛和夫さんや松下幸之助さんを尊敬していますが、彼らは物事に動じない。それは、哲学が深いところで信仰という路と繋がっているからだと思う。だからこそ、10年や20年という世の中の波を乗り越えて、ブレない経営判断ができるんですね。
「人件費はコストではない、それは経営の目的である」と言った経営者がいますが、立派な経営哲学だと思います。哲学というのは水面下に広がる氷山の一角ようなもので、表面に見えているのはほんの一部です。だから、普段どれだけものを考えているかが大事になってくる。
ところが現代は、文字、活字がすごく軽んじられてきている。そして、その代わりに個人のデバイスに情報が洪水のように流れてくる。テレビをつければ笑いを提供してくれるし、YouTubeを開けば際限なくコンテンツが続く。いつでもどこでも、気を紛らわせることができる。

私も気づいたらSNSを開いてしまいます。

その結果、深く物事を考える時間が軽視されている。私自身も一時期は通勤中にイヤホンをつけて落語や音楽を聴いていました。便利だと思って続けていたんですが、ふと気がついたんです。「これではいけない。自分と会話する時間がなくなってしまう」と。別にこれは禅宗の話をしているわけではなく、ただ、歩きながらでも座りながらでも、ふとした時間に自分と対話することはあるでしょう。たとえば、辛い失敗を思い出して「あの時、相手は怒っていただろうな」「次からはこうしよう」と、何日も考え続けるような。そうやって「自分と会話する時間」がなくなっている現状に危機感を覚えます。

自分と会話する時間……。

これは若い人に限らず、70代の人にも言えますが、「このままでいいのか」という、電気回路でいうところのフィードバック回路があるからこそ、人生は改善することができる。今はそれを機能させる余裕もないほど、みんな忙しいでしょう。そう考えると、自分の人生にいくつもフィードバック回路を持たずに生きていることの恐ろしさに、どうやったら気づいてもらえるのかと思ってしまいますね。
メディアの変化と社会参加――新しい時代の課題

先ほど、考える時間が減少したことの要因の一つとしてメディアの変化をあげていましたが、メディアの影響は他にどのようなことが考えられますか?

悪いことばかりではないと思っています。最近は「石丸伸二現象」や、東京都知事選挙にまつわる「日本保守党現象」、それから神谷宗幣氏を軸とした「参政党現象」など、新しい動きが確実に起こっているように感じます。兵庫県知事選挙では20代の投票率が非常に高かったとも聞きます。これは、情報媒体の変化に伴って若い世代の意識や行動が変容している証拠だと思います。心強い反面、こうした流れをどうやっていい方向に導いていくかが重要です。

2024年京都市長選では「推し選」という言葉が使われました。若い世代の政治参加や社会参加の形も、SNSやYouTubeの普及によって変わってきているように思います。

確かに、従来のように自分が直接動くより「推しを見つけて応援する」形が増えているかもしれません。一見受動的にも思えますが、投票行動や政策への関心として現れるなら、それは立派な社会参加だと思います。時代は常に変化していて、情報発信や選択肢も多様化している。

一方で、「推しを応援する」という行為は、ある意味で自分の考えや意思を誰かに託すことにもつながると思います。その結果、自分で主体的に判断する感覚が薄れ、気づかぬうちに周囲の声に流されやすくなるのではないかと懸念していますが……

それに関しては、あえて反論しますが大きい声に左右されるのは人間の性(さが)だと思った方がいい。古代ローマの政治家であるシーザーが「人は見たいものしか見えない」と言っているように、都合のいいようにしか物事を見ないし、都合のいいことしか聞こえない。これは情報の多寡を超えた、人間の生存に関わる本質的な問題です。
要するに、人間というのはそもそも身勝手で、私利私欲の塊でもある。悪いことをする力もあるし、泥棒や詐欺もできる存在。それを「あえてやらない」人こそが経営者として成功する。
話を戻すと、人は大きい声や、見た目の良さや、若い女性の候補者などにどうしても引かれやすい。騙されもするし、大きい声にも引かれる。
ただし1人の人間は一度に1カ所にしか存在できない。自分がどんな人に出会い、どんな話を聞くかは時間の流れの中でとても限られています。そして選択は常に自由だけれども、得られる情報はその制限ゆえにとても狭い。これは地上波でもYouTubeでも「推し」でも同じこと。
だから、これは悲しむべきでも喜ぶべきでもなく、人は有史以来ずっと同じ間違いを繰り返し、同じように喜びや成功体験も積み重ねてきた。それは、人はどのような言葉に出会ったかで人生が変わる。同じことで、人はどのような人物に出会ったかで人生が変わるということはこれまでもそうだったし、これからも変わらないということです。

しかし、AIの発展によって、人間によって導かれるのではなく、AIによって導かれるようになったら危険になる可能性はありませんか?

おっしゃっているのは、AIが一人ひとりの趣向を分析して、一種の「誘導」を行う社会のことですよね。何が見たいか、何が欲しいかをAIが先回りして提示してくれる。それが人間の望まない方向に知らぬうちに進んでしまうかもしれない、ということですね。しかし、人間は常にそうした望まない動きに対して「本当にこれでいいのか」と疑問を持ち、反逆してきた生き物でもあるはずです。たとえAIが便利でも、完全にコントロールされることを拒む動きが必ず出てくる。そこにこそ、人間らしさがあると思うんです。
オーストラリアのように16歳未満のSNS利用を制限する法律を導入する国も出てきました。そこには「若者に考える余白を残したい」という社会の意思がある。もしAIが人間を支配する社会になっても、そうした動きを期待したいですね。

次世代への提言――自分の「問い」を育てるために

結局、これからの若者たちはどのように生きていけばよいのでしょうか?

まず、「ある程度追い詰められないと、本当の意味で問いは生まれにくい」ということを理解してほしい。苦労や失敗に直面すると、人は初めて「これでいいのか?」と深く考えはじめます。
実際「一枝会」では学生に35万円を支給して、1人で海外に行ってもらう。その条件は「1人」であることです。誰かと一緒だと、どうしても自分の殻を破りきれない。途上国を含めて色んな国を訪れて、現地の匂いや空気を肌で感じ、自分の価値観が揺さぶられるような体験をしてほしいと思っています。

1人で海外行くのは色々なことを考えるきっかけになりそうです。

そしてもう一つ、魅力的な人に出会ったら積極的に近づいていくこと。素晴らしいオーラを放っている人は必ずいます。そういう人を見つけ、近づき、学び取る。それが自分を変える大きなきっかけになります。ただし、そうした出会いを得るためには、自分自身もまた「輝いている存在」である必要がある。高級スーツや高価な車を持てと言っているのではなく、「本当に人生を楽しそうに生きているな」と思わせるような生き方を追求してほしいですね。

<取材・執筆=日野、写真=丸山>
株式会社ナベルHP:https://nabel.co.jp/